2025 10 30

クマダス ──デジタル社会と野生のあいだで考えること

カレンダーをめくる手が冷たく感じる季節。
秋が深まり、朝晩の空気がひんやりしてくると、ニュースで「クマの出没」が相次いで聞こえてきます。
「令和の時代にクマ?」と思わず呟きたくなるほど、今年は全国的に多くの出没情報がありました。

しかし、考えてみればこれは「生き物の世界の当たり前」なのかもしれません。
人間がデジタル社会を築き上げ、AIが会話し、都市が光で満ちていく一方で、
自然界のルールの中では、人間もただの“生き物のひとつ”に過ぎません。

そんな現実を静かに突きつけてくるのが、この「クマ出没」というニュースなのです。


■ “クマダス”という仕組み

「アメダス(気象観測システム)」をもじって名付けられた「クマダス」。

見てみると驚くことに、出没地点は“山奥”だけにとどまりません。
小学校のすぐ近く、公園の裏、住宅街を流れる小さな川沿い――。
まるで、人の生活圏と野生の世界の境界線が、少しずつ曖昧になっているようです。

2025年度は、クマによる死者が過去最悪を記録。
人身被害全体の件数も昨年度とほぼ同じペースで増加しており、10月〜11月にかけて被害が集中しているとのこと。
つまり、今まさにその「ピーク期」に私たちはいるのです。


■ クマはなぜ里に降りてくるのか?

環境省のデータによれば、クマの出没が増えている背景には「食糧不足」「気候変動」「生息地の減少」など、いくつもの要因が重なっています。

今年はブナやドングリなどの実りが少なく、クマが餌を求めて山を下りる傾向が強まっているとのこと。
さらに、かつて“緩衝帯”となっていた里山が宅地や道路に変わったことで、
人間と野生の世界の境界がどんどん薄れているのです。

つまり、「クマが出てきた」というより、「私たちがクマの世界に踏み込んだ」と言った方が正しいのかもしれません。


■ クマダスで見える“生き物としての尺度”

「クマダス」のマップを開くと、データが次々にプロットされていきます。
それは、私たちが便利さの中で忘れがちな“生き物としての感覚”を思い出させてくれるようです。

人間はインターネットやAIを使いこなし、あらゆる情報をデータ化して管理する時代に生きています。
けれど、そんなデジタル社会の中で、「野生の生き物が今どこにいるか」という情報も、
同じようにデータで把握しなければならなくなっている現実。

便利さと危うさが、まるで表裏一体になっているように思えます。

「クマダス」は単なる“出没マップ”ではなく、
私たち人間がどれほど自然と切り離された生活をしているのかを映し出す“社会の鏡”でもあるのです。


■ デジタル社会に住む「アナログな生き物」

AIがニュースを作り、SNSが世論を動かす。
そんな時代の中で、私たちは「人間は高度な存在だ」と錯覚しがちです。
しかし、生き物としての基本的な部分――たとえば自然の匂いや気温、湿度の変化、日光の角度――
そうした五感で感じる情報の中で生きることが、どれほど大切か。

クマの出没ニュースを見ながら、ふとそんなことを考えてしまいます。

自然界の中での人間は、決して特別ではない。
生き物としての能力だけでいえば、嗅覚も聴覚も、体力も、クマには到底敵いません。
ただ「道具を使う知恵」があるだけの存在。
それなのに、あたかも自然を支配したような錯覚を抱いてしまう――。

この“思い上がり”こそ、クマ出没の根っこにある社会的課題なのかもしれません。


■ クマと人の境界線は、どこにあるのか?

近年では、東京都の奥多摩や大阪府の北部、さらには兵庫県や奈良県の市街地でもクマの目撃情報があります。
「都会にクマが出る時代」が現実になりつつあるのです。

もちろん、危険な動物としての警戒は必要です。
しかし一方で、クマにとっても“人間が作った道”を歩いているだけという事実もある。
川沿いの緑地を伝って、山から住宅地へ。
そのルートの多くは、もともと人間が森を削ってつくった生活圏の延長線上なのです。

つまり、クマの侵入は「異常事態」ではなく、
自然と人間社会が“再び交わってしまった”という自然の反応とも言えます。


■ クマダスが教えてくれる、現代のリアリティ

“クマダス”のように、自然の動きをデータとして把握することは、
一見すると「デジタル化の最前線」に思えます。
しかし、よく考えるとそれは、人間が「自然との関係を自分の手でコントロールしたい」と願う心理の表れでもあります。

クマがどこに出たのか。どんな時間帯なのか。どれくらいの頻度か。
それを地図上に落とし込み、可視化することで「安心」を得ようとする――。
でも実際は、自然の中で生きる動物たちはそんな人間の都合を知りません。

AIがどれだけ進化しても、
クマの嗅覚や直感的な行動を“完全に予測する”ことはできないのです。


■ データの先にある「人間としての感覚」

では、私たちはどう生きればいいのか。
それは、「データ」と「感覚」の両方を大切にすることだと思います。

クマダスのような情報を通じて、危険を回避することはもちろん大切。
しかし同時に、自然の中に身を置き、「音」や「匂い」や「空気の変化」を感じ取ることも、
人間としての“生きる力”を育てることにつながります。

結局のところ、どんなに社会が進化しても、
私たちは「アナログな生き物」なのです。
季節の匂いを感じ、気温の変化に服を選び、朝日で目を覚ます。
そんな当たり前の行動が、生き物としての原点。

クマが出るというニュースの裏側には、
“生き物としての感覚を取り戻せ”という、自然からの静かなメッセージが隠れているのかもしれません。


■ 「クマダス」から学ぶ、“距離の取り方”

「クマダス」という言葉を聞いたとき、少し笑ってしまいました。
アメダスのように、日常の中に自然を“観測対象”として取り込もうとする発想。
でも、その発想こそが、今の時代に必要な感性なのかもしれません。

人間が自然を恐れすぎず、かといって無視もしない。
適度な距離を保ちながら、互いに共存する道を模索していく。

その第一歩が、「知ること」なのだと思います。

ニュースの中の“クマ”を、ただの「事件」として見るのではなく、
“同じ地球で生きる隣人”として意識すること。

デジタル社会に住む私たちが、「クマダス」というデータ地図を通して、
もう一度“自然との距離”を見直すこと。

便利さや効率ばかりを追い求める「脳中心」の現代社会。けれど私たちは本来、自然の一部であり「身体」もまた生きる知恵を持っています。クマの出没は、人間が忘れかけた身体感覚を思い出すきっかけなのかもしれません。

それが、令和の時代に私たちが生き物として忘れてはいけない、大切な視点ではないでしょうか。

【本日の一曲】
Thin Lizzy – Jailbreak