2025 07 26

【植物のある暮らし・柿編 vol.2 葉を失った柿の木に、再び命の兆しが】

「葉っぱが一枚もない柿の木って、こんなにも寂しいものなんだなあ」と、改めて感じたのは、柿の木の異変から数日が経った頃のことでした。

我が家の裏庭にある、あの一本の柿の木。
6月半ばの時点では、小さな青い実がぽつぽつと枝先に見えていて、「今年も秋の楽しみが増えそうだな」なんて、のんきに眺めていたものです。けれど、その裏では、静かに毛虫たちの侵攻が進んでいたのです。

前回のブログ「柿編vol.1」でも書いたように、発見したときにはすでに遅し。
ヒロヘリアオイラガの幼虫たちが、幹から葉、さらには実にまでビッシリとついていて、それはもう、軽くホラー映画のような光景でした。

枝の先まであった葉っぱは、あっという間に食べつくされ、残されたのは実と、黒ずんだ葉柄だけ。柿の木はまるで、秋の終わりのような姿になってしまいました。

あわてて殺虫剤を散布し、数日後には追加の防除。
虫の姿は見えなくなったけれど、葉が一枚もない木というのは、なんとも哀れな印象で、「もう今年はダメかな……」と、内心しょんぼりしていたのです。


でも、植物の力は、私たちの想像を超えていた

ところがです。
防除から約10日。再び裏庭で柿の木を見上げたとき、私は思わず「あっ」と声をあげてしまいました。

枝先に、柔らかそうな薄緑の葉っぱが、ちらほらと出てきていたのです。
よく見ると、木のあちこちに小さな芽が顔をのぞかせていて、まるで「まだあきらめてないよ」と、柿の木が言っているようにも感じられました。

虫に食べられ尽くしても、枯れたわけではない。
しっかり根を張り、太陽と水を受け取って、静かに再生しようとしていたんです。

「すごいなあ……」と、素直に感動しました。
この粘り強さ、生命力。黙って立ち尽くす柿の木から、ものすごく大事なことを教えられた気がします。


「よく見る」ことの大切さ

今回の一件で学んだこと、それは「植物は、よく見てあげることがいちばん大切」ということ。

毛虫の被害も、最初のサインはほんの小さな葉のギザギザでした。
あのときにもう少しだけ注意深く見ていたら、あんなことにはならなかったかもしれません。

でも、逆に言えば――
新芽の再生も、よく見ていなければ気づかなかった。

朝の光の中で、ほんの数ミリの新芽が光っていること。
前日にはなかった薄緑色が、今日はふたつ、みっつ増えていること。

植物は、言葉を話さないかわりに、こうして日々小さな変化を見せてくれます。
それに気づけるかどうかは、日々の「観察」の習慣にかかっているのだと思いました。


「実だけの木」は、やっぱりどこかさみしい

葉が落ちたあとも、青い実は意外としぶとく残っていました。

でも……
正直に言って、「実だけの木」というのは、なんとも寂しい眺めでした。

果実はもちろん嬉しい。でも、葉っぱがあってこそ、木は“生きている”という感じがするものです。
葉が風に揺れ、木陰をつくってくれてこそ、そこに季節の風景がある。

今回の柿の木の姿を見て、「葉の存在感って大きいな」と、初めて実感しました。


これからは、もっと早く気づくために

「柿の木がまた元気になるかもしれない」
その希望が見えてきた今、私のなかにもスイッチが入りました。

これからは、もっと頻繁に様子を見よう。
ほんのちょっとした葉の傷み、虫の気配、異変のサイン――見逃さないようにしよう。

そして何より、早め早めの対処。
毛虫は静かに増えて、ある日突然“爆発”します。今回はギリギリセーフでしたが、来年も同じようなことが起こるとは限りません。

日々の観察と、早期のケア。
それこそが、植物と付き合っていくうえでの基本なんだと、ようやく気づきました。


おわりに:植物と暮らすということ

柿の木に限らず、植物との暮らしは「癒し」と同時に「試練」もついてきます。

虫害や病気、台風や乾燥……自然の力はときに厳しく、思い通りにならないことも多い。
でも、そんな中で小さな再生や芽吹きを見つけると、本当にうれしいんです。

だからやっぱり、植物のある暮らしはやめられません。

今年の秋、もし再び実が赤く色づいてくれたら。
今度こそ、ひとつひとつに感謝して、大切にいただこうと思います。

そしてそのときには、きっと葉っぱも一緒に揺れていてくれますように。

(続く…vol.3へ)

【本日の一曲】
トリプルファイヤー / 相席屋に行きたい (Cornelius Remix)